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「天本、一生の不覚」 BOSSCM、「トヨエツ、ホテルの廊下でパンツ一丁編」を下敷きにしてご覧下さい……。 悲劇は、「組織」の仕事で出かけた大阪で起こった。 いや、仕事はスムーズに終了した。何の問題もない。 滞在先のホテルに戻ってまずしたことは、敏生をバスルームへ放り込むことだった。敏生の奴、調伏の最中にバランスを崩して転び、全身が子供のようにどろんこになってしまったのだ。 早川が手配したのは、大阪駅に近い高級ホテルだった。いわゆる「豪華ホテル」ではなく「いいホテル」という奴だ。玄関はどちらかといえばひっそりしていて、インテリアは地味だが洗練されたものばかりが配置されている。そして何より、従業員の教育が行き届いていて、部屋にある何もかもが清潔なのだ。悔しいことに、俺の好みの宿を、奴は完璧に把握しているらしい。 数十分前、ドロドロの服を着た敏生とフロントを横切る羽目になったのだが、フロントマンは見て見ぬふりをしてくれ……そしてさっき、メイドが「よろしければクリーニングを」と、汚れた服を取りに来てくれた。フロントマンの気遣いに感謝しつつ、風呂場で洗うくらいでは対処できそうもない敏生の服を、ビニール袋に突っ込んで託した。 そうしてしまうと、俺は急に手持ち無沙汰になってしまった。 バスルームからは、敏生が風呂を使っている水音が聞こえてくる。さっき、バブルバスのキューブがついていると大喜びしていたから、きっとバスタブの半分を泡にして遊んでいることだろう。なかなか上がってきそうにない。 さすがに仕事の後に本を読む気にはなれず、俺はベッドにゴロリと横になった。ところが、そうしていると急に睡魔が忍び寄ってくる。瞼がジンと痺れたように重くなってきたのだ。 敏生が風呂から上がってきたとき、俺が寝てしまっていてはがっかりするだろう。きっと、風呂の感想やらルームサービスの相談やら、とにかく喋りたがるだろうから。 (……何かないかな) 暇つぶしになりそうなものを求めて、俺はサイドテーブルに視線を滑らせた。 新約聖書。冗談じゃない。 英語の大阪観光案内本……悪くはないが、わざわざ英語で観光案内を読まなくても、敏生がガイドブックを持ってきていたはずだ。 さて、ではいよいよすることがない……と途方に暮れかけたとき、ふと、金色の紙箱が目に入った。跳び箱を逆さにしたような形のその箱を手に取ると、ぷんと甘い香りが鼻をくすぐる。間違えようのないチョコレートの匂いだ。 つい、蓋を開けてしまった。箱の中には、上下に仕切を入れて、全部で十二個、色々な形や色のチョコレートが、綺麗に並べられていた。「楽しい滞在を」と書かれた小さなカードも同封されている。どうやら、ホテルからのウェルカムスイーツらしい。 調伏で疲れた身体は、休息と同時に甘い物も欲している。一つ、口に放り込んでみた。 旨い。 疲労のせいかもしれないが、それはやけに旨かった。苦みが効いたブラックチョコレートの中に、甘すぎず爽やかな味のイチゴのフィリングが詰まっている。おそらく、ベルギーチョコレートだろう。いいホテルには、いい食べ物が置いてあるものなのだ。 何となく、隣のミルクチョコレートの味も確かめたくなって、もう一つ摘んでみる。バニラクリームのフィリングだった。これはこれで、まるで子供の食べ物のようでホッとした気分になる。 テレビをつけてみると、ちょうど古いアメリカ映画をやっていた。それを見ているうちに、睡魔が少しずつ遠ざかっていく。そして俺は無意識に、チョコレートを次から次へと口に運んでいたらしい。気がついたら……箱が空っぽになっていた。 「……しまった」 さすがに狼狽して、俺はただの「匂いつきの箱」になってしまったそれを呆然と見つめた。自分が甘党であることは自覚していたが、まさか全部平らげようとは夢にも思わなかったのだ。さすがに、これはまずい。仕事を片づけて消耗しているときだから、太りはすまいが……明日の朝、顔が吹き出物だらけになっていても不思議ではない。 「まずいな……」 そう呟いたとき、敏生がバスルームから出てきた。俺は意味もなく慌てて箱をサイドテーブルに放り投げると、起き上がってベッドから下りた。 「長かったな」 「だって、泡だらけで面白くって。……待ちくたびれちゃいましたか?」 「少しな。……ちゃんと髪を拭け」 俺は敏生に歩み寄り、頭に引っかけていたバスタオルで、敏生のまだびしょ濡れの髪をゴシゴシ拭いてやった。 「むー。自分で拭けますよう」 敏生はくぐもった声で文句を言い、タオルの隙間から、俺を上目遣いに見た。よほど長く風呂に浸かっていたらしく、頬が林檎のように上気している。 「ほら、僕の世話なんか焼いてないで、天本さんもお風呂入ってください。もう、お湯貯めてありますよ」 「そうか。……ああ、眠かったら我慢せずに先に休めよ」 「はーい」 敏生の返事を背中で聞いて、俺はバスルームに入った。なるほど、バスタブの中は、うんざりするほどの泡の海だ。べつに俺は、バブルバスに興味はないんだが……。と思いつつも、敏生のせっかくの気遣いを無にするのも気が引けて、俺はゆっくりとバスタブに身を沈めた。 少し熱めの湯が、身体に染み通るように心地よい。泡を掻き分けるように腕を伸ばし、俺は肺が空っぽになるほど深い溜め息をついた……。 そして、湯から上がって、さてバスローブを着ようとしていたところで……バスルームのドアが、勢いよく開いた。 「天本さんッ!」 入ってきたのは、もちろん敏生だ。しかし、どう見ても、激怒している。 呆気に取られた俺の腕を引っ張って、敏生は俺をバスルームから引きずり出した。 「な……なんだ、どうした」 「どうした、じゃないですよう!」 敏生は、片手に持ったものを俺の鼻先に突き出した。 ……それは、あのチョコレートが入っていた紙箱だった。湯で温まったはずの身体に、ゾクリと寒気が走る。 敏生は、鬼のような顔で言った。 「全部食べちゃったんですね? ひとりで」 「う……あ、ああ、つい……」 「いっぱい入ってましたよね? あとで一緒に食べようと思って、僕、我慢してたのに!」 「す、すま……」 謝ろうとしたが、敏生は俺の背中を押して、あろうことか、部屋から追い出してしまった。 「お、おい、敏生……」 「愛が足りませんッ。反省してください!」 バタン! 俺を廊下に叩き出して、敏生は乱暴に扉を閉じてしまった。鍵がガチャリと回る音が聞こえる。俺は自分でも滑稽なほど大あわてで、厚い木の扉を両手で叩いた。 「おい、敏生、冗談は止めて開けないか!」 『嫌です。そこでしばらく反省してください』 つーん、と効果音がしそうな声でそう言って、敏生の足音が遠ざかる。 参った。食べ物の恨みは怖いと一般的に言われているが、敏生の場合、それはなお深く激しいのだ。おそらく、風呂から上がったら食べようと、楽しみにしていたのだろう。確かに、大人げなく、申し訳ないことをした……。 と、落ち着いて反省している場合ではない。俺は自分の姿を見てゾッとした。 とにかく、かろうじて下着を着けていることだけが不幸中の幸いで、あとはバスタオルを肩からかけているだけのほとんど素っ裸状態なのだ。そんな格好で、頭から水滴をポタポタ落としながら、幅の広い、毛足の長い赤絨毯の廊下に佇んでいる自分は……不審者以外の何者でもない。このままでは風邪を引くとか、そういう現実的な問題はさておき、こんな姿を誰かに見られたら……まずい。とてもまずい。 「敏生っ。とにかく開けろ。中に入ってから、いくらでも謝るし、埋め合わせを考えるから!」 大声も本当はまずいが、背に腹は替えられない。必死で訴えてみたが、返事はなかった。いくら廊下も暖房されているとはいえ、季節は冬だ。ボクサーショーツと湿ったバスタオルしか持ち合わせていないので、しんしんと身体が冷えてきた。 「いい加減にしないか!」 声を荒げ、思いきって扉を蹴飛ばしてみた。靴を履いていないから、扉に傷を付けることはないだろう……と思ったが、つま先がこんなに痛いとは思わなかった。しばらく、足を押さえてうずくまる。 これではたまらないので、思いきってドラマのように少し離れたところから、扉に体当たりをくらわしてみた。 「……ううっ……」 蹴ったときほどではないが、やはり痛い。肩がジンジンした。 それでも敏生は、強情に鍵を開けようとしない。 もう、どうしてくれようか……と思っていたら、あろうことか、廊下を歩いてくる人影が。俺は咄嗟に周囲を見回したが、当然見渡す限り客室の扉が並んでいるわけで、身を隠すところなどありはしない。 せめて……の思い空しく、こちらへ向かってやってきたのは、男性ではなく……うら若い女性だった。しかも、金髪碧眼の、いかにもキャリアウーマンらしい紫色のシックなスーツを着こなした美人だ。 まずい。非常にまずい。 だが現状で俺にできる唯一の対応策は……扉に張り付くことだけだった。情けないが、まるでスパイダーマンのような格好で、女性から顔を背け、何とかやり過ごそうとする。 冷ややかな、訝しげな視線が、背中に突き刺さる。気配が通り過ぎていく。俺は息を殺してひたすら待った。 幸い……というか何というか、彼女は「変態!」と叫び声を上げもせず、ただ穴が空くほど俺を見ながら、足早にエレベーターホールへと消えていった。 「……助かった……」 俺はずっと詰めていた息を吐き出す。まったく、何故チョコレート一箱で、こんな窮地に立たされなくてはいけないんだ。馬鹿げている……と思いつつも、確かにパートナーへの配慮に欠けていたことは否めない。 (……早く機嫌を直してくれればいいんだがな) 俺は冷たい扉にグッタリもたれ、深い深い溜め息をついた……。 結局、敏生が部屋に入れてくれたのは、それから二十分ほどもしてからだった。彼にしては、最大級の怒りだったようだ。 俺は平謝りに謝って、何とか明日一日、彼の好きな過ごし方をする、及び彼のほしいものを買ってやる……で、ようやく機嫌を直してもらうことに成功した。チョコレート一箱の代償としてはやや大きすぎるような気がするが、まあいい。 「わーい、明日はどこへ行こうかな」 そんなことを言いながら、さっきから敏生が俺のとなりでニコニコ嬉しそうにしている。その笑顔を見ていられるなら、一日引きずり回されるくらい何でもない……ということにしておこう。 とにかく……今はパジャマを着こんでいるが、パンツ一丁で廊下に一時間近く立たされて、明日の朝、風邪で寝込まないことを心から祈るのみだ。 ……と思っていたら、敏生がふと俺の手に自分の手を重ねて言った。 「あ、いつもより冷たい。……ごめんなさい、身体、冷えちゃったですか」 「かもな。明日、風邪でひっくり返ったら、さすがに外出は延期にしてくれよ」 そう言ったら、敏生は心底心配そうな顔をして、立ち上がった。俺の前に立って身体を屈め、俺の額に自分の額を押し当てる。 「熱はまだないですけど……大丈夫かな」 どうやら、癇癪を起こしたことを、少しは反省しているらしい。俺は敏生を抱き寄せ、そのまま自分の膝に横抱きにしてしまった。小柄で痩せぎすの敏生だからこそできることなのだが……子供のように体温が高い敏生の身体が、やけに今夜は心地いい。 「君が一晩毛布の代わりをしてくれたら、風邪も寄りつけないと思うんだがな」 抱きしめて耳元でそう囁くと、見る間に敏生の耳元が赤く染まる。 「天本さんってば。……やっぱりもうちょっと怒っとけばよかった」 「もう遅い」 我ながら安上がりな男だと思いはするが……恥ずかしそうに俺を睨む敏生の唇にキスをして、俺はさっきの締め出しのダメージが帳消しになったような気がした……。 |