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「じゃあ、一時間経ったらここでまた会おう。ほかへ行って迷うんじゃないぞ、敏生」 そう言って天本さんは、クルリと背中を向けた。後ろ手を軽く振って、真っ直ぐ伸びたスーツの背中が、たちまち人混みの中に消えていく。 ここは、大阪。梅田の阪神百貨店の地下食料品売り場だ。 大阪に来たのは、霊障解決の仕事じゃない。天本さんが、小説の取材に出かけるというのに便乗して、僕もついて来てしまったのだ。龍村先生とも会いたかったし、大阪にはおいしいものがたくさんあるし……何より、天本さんが珍しく「一緒に来るかい?」と誘ってくれたのだから、僕が断るはずなんかない。 まだ大阪に来たばかりだけど、天本さんはすぐに約束している相手に会いに行くという。さっさと仕事を片づけて、今夜はゆっくりおいしい夕飯を食べようと、そう言ってくれた。 べつにホテルで待っていてもいいのだけれど、それではあんまり退屈だ。だから僕は、百貨店の食料品売り場をうろつくことにした。 平日だけど、夕方だから、食料品売り場はけっこう混んでいた。みんな、仕事帰りに晩のおかずを買って帰るのだろう。どこの店も作りたてのお総菜をたくさん並べていて、どれも美味しそうだった。匂いを嗅いでいるだけで、ぎゅるる、とお腹が鳴った。僕の胃袋は、本当に正直だ。 時々、店員が差し出してくれる試食をもぐもぐやりながら、広い売り場を歩く。……と、ふと立ち食いコーナーに突入してしまった。 にぎり寿司、イカヤキ、洋食焼き、うどん、あんかけヤキソバ、アメリカンドック、ソフトクリーム……何だか小さな屋台街みたいな一角だ。みんな、あちこちにある立ち食い用のスタンドで、美味しそうに熱々の料理を頬張っている。 「うわあ……美味しそう」 僕は思わず足を止め、そしてちょっと考えた。 天本さんは、きっと物凄く美味しいお店に連れてってくれるんだと思う。お腹を空かせていかないと申し訳ないし、きっと悔しい。 (でも……) でも、ここで何も食べずに我慢するのは、もっと悔しい。 お寿司はいくら何でもまずい。うどんも、お好み焼きも……ちょっと、一時間で腹ぺこに戻るのはきついかも。……だったら……。 心の中でイカヤキとタコヤキを秤に掛けて、僕は結局、列が短いタコヤキのほうにした。小一郎がいれば、背後から襟首をひっ掴まれるところだけど、今回、彼は留守番なのだ。ずいぶんとふてくされていたから、お土産を忘れないようにしないと。 大きなタコヤキ6個で190円。なかなかお手頃な値段だ。ちょうど目の前のカウンターに空きが出来たので、僕はそこに潜り込み、あつあつのタコヤキを頬張った。口の中を火傷してしまったけど、たっぷりのソースが絡んでとても美味しい。 ハフハフいいながら食べていると、ふと向かいの二人連れが目に止まった。 二人ともまだ若い……僕と天本さんの中間くらいの年令の男の人だ。ひとりは女の人みたいに綺麗な顔立ちで、髪も長めに伸ばして、後ろで一つに括っている。 もう一人のほうは、まるで龍村先生みたいに大柄で、雰囲気もちょっと似ていて……でも、あんなに豪快じゃなくて、凄く優しそうな顔をしてる。 二人は、僕のよりもっとたくさんタコヤキの乗った皿を一緒につつきながら、けっこう賑やかに喋っていた。おかげで、向かいにいる僕には、彼らの会話が筒抜けだ。いけないとは思いつつ、僕は思わず聞き耳を立ててしまった。 「なあおい。まさか今日の晩飯、これじゃねえだろうな、筧。お前が奢るって言うから、俺はわざわざ仕事早上がりして来たんだからな」 「わかってるてタカちゃん。これはおやつやん。ごめんな、僕の休みにつき合わせてしもて。タカちゃんお洒落やし、僕のジャケット選んでほしかったんや。僕ほら、あんま着るもん構わへんから」 「そうだなあ。刑事の連中の私服センス、ヤクザみてえだもん。お前もあれには染まるなよ。恥ずかしくて一緒に歩けなくなるからな。よし、今日は俺が、ばっちりいかした奴を選んでやる。お前、ガタイがいいんだから、けっこう決まるぜ」 「ホンマ? 嬉しいなあ。せやけど、あんまり高いのは勘弁やで。刑事の安月給やし」 「わかってるって。ローンって手もあるしな!」 「ええっ! そ、それは……ちょっと……」 「冗談だって。ま、そこそこの値段でいい奴見つけようぜ。もしかしたら、それでバレンタインのチョコレートを山ほどもらえるかもしれねえぞ」 「それこそ冗談やわ、タカちゃん。バレンタインは明日やで。間に合わへんやん」 「そっかー。ま、お前はいいよな。署に婦警さんたくさんいるんだろ。いっぱいもらえるじゃねえか。俺なんか、ミチルさんとネコちゃんと……百歩譲ってあの科捜研の姉さんくらいだぜ」 「ええやん。僕がもらうんは全部義理チョコやし。……あ、せや。そないにチョコ好きなんやったら、今日のお礼にチョコもつけよか?」 「ば……馬鹿言ってんじゃねえよ! お前なんかにチョコレートもらったって、気持ち悪いだけだろうが!」 「気色悪いは酷いなあ、タカちゃん。チョコはチョコやでー。僕はタカちゃんに貰うたら、かなり嬉しいけどなあ」 「ばばば、馬鹿言ってんじゃねえ! ホラ、俺はもういいから、後さっさと食っちまえよ。とにかく洋服は、片っ端から店を回って、ガンガンたくさん見てから決めなきゃいけねえんだ。時間足りなくなっちまう」 「張り切ってんなあ」 「そりゃそうだ。一緒に歩く俺が恥ずかしくないように、いいもの選ばなきゃな!」 タカちゃんと呼ばれている綺麗な人は、えらく口が悪いみたいだ。でも、筧って名前らしい大柄な人のほうは、何を言われても何だか嬉しそうに聞いてる。 もしかしたら、学生時代の天本さんと龍村先生って、こんな感じだったのかなあ、とちょっと思った。 今よりずっとトゲトゲしてた天本さんと、今よりずっとオドオドしてた龍村先生……どっちも上手く想像できない。だけど、きっと天本さんが文句ばっかり言って、それを龍村先生は丸ごと受け止めていてあげていたんだろうなあって思う。 何だかその時のことを想像して、僕はクスッと笑った。 どっちも背が高くてよく目立つ二人連れは、相変わらず賑やかに喋りながら、人混みに紛れて行ってしまった。きっとこれから、あの大柄な人の服を探しに、あちこち歩き回るのだろう。 僕もタコヤキを食べ終えて、腕時計を見た。約束の時間までは、まだあと三十分ほどもある。 どうしようかな……と思っていたら、ふと、さっきの二人の会話を思い出した。そうか、明日はバレンタインデーなんだ。 きっと天本さんちには、毎年と同じように、バレンタインデーを少し過ぎたら、段ボール箱にぎっしりの読者さんからのチョコが届くんだろう。 天本さんはいつでもチョコなんでどうでもいいような顔をして、僕に「好きなのを好きなだけ持っていっていいぞ」って言ってくれる。だから何となく、僕がさらにチョコを上乗せするのも気が引けて、これまでチョコレートをあげたことはなかった。 (それに……僕、一応男だし) 外国ではどうだか知らないけれど、日本では、やっぱりバレンタインデーのチョコレートは、女の子から好きな男の子にあげるものだってイメージがある。それで、これまでは一度も天本さんにチョコレートをあげたことがないのだ。 でも、今年は……。 今年に限っては、ちょっとこのあいだのお詫びの意味も込めて、チョコをあげたい気がする。というのも……。ついこの間、アトリエから帰ってきてお腹がペコペコだった僕は、天本さんが留守だったこともあり、冷蔵庫に入っていたチョコレートケーキを見つけて、さっそく包み紙を剥がし、頬張ってみた。小さいのに、凄く味が濃くて美味しい。思わず、三つあったそれを、つい全部食べてしまって……。 お客さんを駅まで送っていってたらしい天本さんは、それからしばらくして帰ってきた。僕がしょぼくれてケーキを全部食べてしまったことを白状したら、怒りはしなかったけど、やっぱり残念そうな、渋い顔をしてた。 ──さっき来ていた客が、馴染みの店の試作品だから、試食してやってくれと土産に持ってきたものだったんだが……。まあいい、君が三つも平らげるんだから、十分に合格点だろう。先方に感想を訊かれたら、そう言っておくよ。 結局はそう言って笑って許してくれた天本さんだけど……やっぱりあのとき、試作品ケーキ食べたかったんだろうなあ……。そう思うと、未だに冷や汗を掻いてしまう。 (あれは試作品って言ってたから、同じの買うのは無理だけど……) でも、こんなにケーキ屋さんが集まったデパートの地下なら、よく似た感じのケーキを見つけることができるかもしれない。「こんなのだったんですよ」って渡せたら……。 「よしっ、そうしよう!」 自宅で何でもないのに「バレンタインのチョコです」って渡すのは恥ずかしいけど、こんなふうに旅先で、「ごめんなさい」もコミで渡すなら、何とかなりそうな気がする。 僕はとたんに張り切って、ゴミを片づけ、人混みを掻き分けて、ケーキ売り場へと突撃したのだった……。 それから二時間後。 僕と天本さんは、駅からそう遠くないビルの地下にあるベトナム料理屋に来ていた。店じゅうにカエルの置物が飾られていて、食器の模様もすべてカエルの、とにかくカエルだらけの店だ。 天本さんの知り合いの編集者さんおすすめの店らしい。凄くお洒落で、色んな料理を少しずつ出してくれて、そのどれもがとても美味しい。盛りつけもきれいで、ウェイトレスは可愛いアオザイを着ている。 取材が上手くいったんだろう。天本さんはご機嫌で(って言っても、たぶんよその人には十分機嫌悪そうに見えると思うんだけど)、明日は神戸へ移動する前に、海遊館に行こうと言ってくれた。前に僕が、ジンベイザメが見たいと言ったのを、ちゃんと覚えていてくれたのだ。 そういうちょっとしたことで、天本さんは僕をいつも嬉しい気持ちにさせてくれる。僕のことをちゃんと気にかけてくれてるって、行動でわからせてくれる。 (……僕も、お返ししなくちゃ) そう思い立って、僕はデザートのココナツアイスクリームをつついていたスプーンを置き、椅子に引っかけてあった紙袋の中をゴソゴソと漁った。 練乳のたっぷり入ったベトナムコーヒーをスプーンで掻き回していた天本さんは、訝しそうに顔を上げる。 「どうした、急に」 「あの……えと、こ、これ……っ」 僕は、顔がかあっと熱くなるのを感じつつ、天本さんに小さな紙箱を差し出した。何だか、照れてしまって、天本さんの顔を見られない。 俯いたままの僕に、天本さんは戸惑った声で問いかけてきた。 「それは……俺にかい?」 僕は、下を向いたまま、大きく頷く。天本さんの冷たい両手が、僕の手から、そっと箱を受け取ってくれた。僕は、ようやく顔を上げる。天本さんは、何と言っていいかわからないような、ちょっと変な顔で僕を見ていた。 「あの……それ、さっき天本さんを待ってるあいだに買ったんです。それで、その……」 天本さんは、軽く首をかしげたまま、両手で箱を持ち、僕の言葉を待っている。僕は、意を決して正直に言った。 「こないだ、天本さんがせっかく貰ったチョコケーキ、僕がひとりで食べちゃったでしょう。だからその……よく似た感じのケーキ、買ってみたんです。……明日……ほら、バレンタインデー……だし……」 最後のほうは、ボソボソと消え入るような声になってしまった。やっぱり恥ずかしい。僕からバレンタインのチョコなんて貰ったら、天本さんは笑ってしまわないだろうか。 でも天本さんは、一瞬あっけにとられたような顔をして……それから、ゆっくりと笑顔になった。苦笑いでも困った笑いでもなく、本当に嬉しそうに微笑んで、天本さんは言った。 「一日早いバレンタインデーか。ありがとう」 「……気に入ってもらえるかどうか、わかんないんですけど。でも、デパートのお菓子屋さん全部見て回って、これがいちばん美味しそうだったんです。……天本さんは、バレンタインのチョコなんて珍しくもないから……あのう、こんなの要らないて言われるかもしれないって思ったんですけど……」 何だか、何が言いたいかわからなくなってしまって、僕はモグモグと口の中で言葉をこねくり回す。天本さんは、相変わらずの笑顔で僕を見ていたが、やがて冷めたコーヒーを一息に飲んでしまうと「出ようか」と立ち上がった。 「え? ……あ、は、はい」 僕も慌てて腰を浮かせる。天本さんは、伝票と僕の渡した箱を手に持って、さっさとレジへ向かう。僕も、何だかちょっと不安になりながら、その後を追った。 まっすぐホテルに帰ってしまうのかと思ったら、天本さんは何だか妙に真面目な顔で、腹ごなしに少し歩いていこうか、と言った。それで僕らは、淀川べりの遊歩道を散歩してみることにした。 それほど寒さが厳しくない。それでも、やっぱり少し歩いただけで、指先がかじかんで痺れたみたいになった。僕が両手に息を吹きかけて温めていると、天本さんは僕の片手を握って、自分の手ごと、コートのポケットに入れてくれた。 天本さんのカシミアのコートは、暖かくて柔らかくて、とても手触りがいい。僕の手を優しく握っている天本さんの手は僕のと同じくらい冷たいけれど、そのうち二つの手は、狭いポケットの中で、お互いの熱で温まっていくのだ。 「……ここで深夜のお茶会はどうだ?」 唐突に、天本さんはボソリと言った。僕は驚いて足を止める。天本さんも立ち止まり、ちょっと目を細めて僕を見た。照れているときの、天本さんの癖だ。 「ホテルで食うのもいいが、それでは味気ないだろう」 それがさっきのチョコレートケーキのことだと悟って、僕は目を見張った。 「ここで食べるんですか?」 天本さんは頷き、背後のベンチを指さした。 「確かに寒いが、耐えられないほどでもない。たまにはそんな酔狂もいいと思ってね」 街灯に淡く照らされたベンチからは、淀川の流れや対岸の灯りを見ることができる。珍しい天本さんの悪戯ッ子みたいな提案が嬉しくて、僕は元気よく頷いた。 そこで僕らは、近くにある自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチに並んで座った。天本さんは、さっき僕が渡した紙箱のリボンをほどき、そっと蓋を持ち上げる。現れたのは、ごくプレーンなチョコレートケーキが二つ。ほとんど真っ黒に見えるケーキの表面には、パウダーシュガーで雪のように白く振りかけられている。 「うん……旨いな」 砂糖をこぼさないよう、器用にケーキを囓った天本さんは、そう言って笑った。僕も、照れ笑いしながら一口囓ってみる。甘いんだけど、ほろ苦さがそれを押さえていて、ごくちょっぴり、隠し味みたいにお酒の香りが効いている。スポンジはしっかり目が詰まっていて、でもカチカチじゃなく、口に入れるとホロリと溶けた。……あの試作品ケーキによく似ている……というか、あれより美味しいような気がする。 ピッタリ寄り添って座り、僕たちは無言でケーキを平らげ、熱いコーヒーを飲んだ。天本さんは、外灯にキラキラ光る川の流れを見ながら、不意にこんなことを言い出した。 「そういえば……さっき、俺がチョコレートをたくさんもらうから云々と言ったな、君」 僕は、ドギマギしながら頷く。 「い、言いましたけど……。だって天本さん、毎年箱単位でもらってるし。僕にもガンガンくれちゃうし……」 「それが……その……」 天本さんは、僕のほうを見ず、川を見たまま、変に口ごもる。 「何ですか?」 僕が催促すると、天本さんは一つ咳払いしてから、やけに早口で言った。 「それが、これまで俺にバレンタインデーのチョコレートをくれなかった理由かい?」 「……え?」 吃驚して思わず変な声を出してしまった。天本さんは、急に慌てたみたいに付け足す。 「ああ、いや何でもない。忘れてくれ」 そして「行こうか」と立ち上がりかけた天本さんのコートを、僕は両手で思いきり引っ張って止めた。無理矢理ベンチに座らせて、その顔を覗き込む。天本さんは、怒ったような照れたような、何だか妙な顔をしていた。 「天本さんってば……」 その顔を見たら、天本さんの言いたいことがわかるような気がして、僕はどうしても笑いを引っ込めることができなかった。クスクス笑い出した僕を見て、天本さんはふてくされたようにそっぽを向いてしまう。その顎の綺麗なラインを見ながら、僕は問いかけてみた。 「ねえ、天本さん……もしかして」 「言うな」 「もしかして、僕からバレンタインのチョコほしいって思ったことがあるんですか?」 「言うなと言ってるだろう」 天本さんの声はつっけんどんだけど、照れてることは口調でわかる。僕はもう少し意地悪してみたくなって、天本さんの肩に顎を乗せ、耳元に口を寄せて囁いた。 「これ……僕が誰かにあげる、初めてのバレンタインのチョコですよ。プレゼント包装してくださいって言うの、凄く恥ずかしかったんですからね」 「…………」 天本さんは、それでも何も言わなかった。さすがにからかいすぎて怒らせたかな……と不安になった頃、急に天本さんの腕が、ぐいっと僕を抱き寄せた。 「わっ」 凄い勢いで、もう少しで天本さんの膝に乗り上げてしまいそうになる。頬が、天本さんのコートの胸にぎゅっと押しつけられた。 「馬鹿馬鹿しいと思うだろうが……。 あれだけ日頃、好きだ好きだと言うなら、くれてもいい……と思ったことがないでもない」 そんな声が頭の上から、そして耳が押しつけられた天本さんの胸から聞こえて、僕は笑うより驚いてしまった。天本さんがそんな素直なことを言うなんて。……っていうか、僕からチョコレートがほしいと思ってたなんて。 「天本さん……そんなこと言わなかったじゃないですか」 「言えるわけないだろう。俺だって、君が男だってことくらいはわかってる。……それに、バレンタインデーのチョコレートというのは、催促するものじゃない」 「そりゃそうですけど……。じゃあ、嬉しかったですか?」 息苦しいのを我慢して訊ねてみたら、天本さんはふっと笑って答えてくれた。 「ああ。さっきも言っただろう。嬉しかったよ」 「じゃあ、よかった」 天本さんは、ようやく腕の力を抜いてくれた。僕は、ちょっとだけ天本さんから離れて、その顔を見る。天本さんは、もうやけっぱち状態なのか諦めたのか、苦笑いして僕の頭をくしゃっと撫でた。 「降参だ。……正直に言えば、読者からもらうチョコレートは、有難くはあるが嬉しいとは思えなかったんだ。……いや、嬉しいが、今の気持ちとは違うというか……」 天本さんはいつになく言葉を探しながらそう言って、それから唇をぎゅっと結び……急に難しい顔になった。僕もつられて、真面目な顔になってしまう。 「とにかく……だな」 天本さんは、はあっと深い溜め息をつき、そして氷みたいに冷たい両手で、僕の頬を挟み込んだ。 「君にチョコレートケーキをもらって、俺は嬉しかった。ケーキは旨かった。……来月のホワイトデーを楽しみにしているといい。……以上だ」 言い終わるなり、天本さんの顔が近づいてきて、僕の唇に、天本さんの冷たい唇が触れる。そして、天本さんは物凄い勢いで立ち上がり、ゴミ箱にケーキの空き箱を放り込むと、ザクザクと大股に歩き出した。 「う……うわあ、天本さん、待ってくださいよう。僕ひとりでホテルに帰れませんってば!」 キスの余韻を楽しむ暇なんて、一秒もない。僕は大慌てで天本さんの後を追いかけた。 「待ってくださいってば天本さんっ」 天本さんってば、よっぽど照れたらしい。僕が小走りでも追いつけないほど猛烈な勢いで歩いていく。息を切らして呼びかけても、足を止めてくれない。 だけど……どかどか歩きながら、天本さんの右手が、ふいっと後ろへ……僕のほうへ差し伸べられた。 (……もう……わかりやすい照れ方と、わかりにくいフォローするんだから……) 僕は、僕の手を待っている冷たくて大きな手のひらめがけて、全力で走り出したのだった……。 |